政府は、元号法の審議過程から現在に至るまで、窓口では西暦で記入したものも受け付ける、元号使用は強制ではない、と言い続けてきました。
しかし、窓口で西暦記入した書類を出そうとしたらトラブルになったという例が度々報告されています。
1,ある郵便局で申請書類に__年__月__日とあったので、当然の如く西暦で記入したら、元号で書いてくれ、といわれた。「元号でないと機械が受け付けないので」と係の人は弁明していましたが・・。
2,介護保険の申請のための書類を記入していて、西暦で書いたら、西暦で書くと手続きが遅くなると脅かされ、やむなく元号で記入した。
いずれも「行政窓口」ではありませんが、介護保険の場合は会社のケアマネなどが対応しているとしても書式は行政の設定したものですし、いずれにせよ、政府が元号の使用について述べていることに反した対応です。
問題はなぜこうした状態が放置されて来ているのか、という事です。
「元号の使用については、国民は元号西暦を自由に使分けていただいてもよいということ」「公的機関の窓口業務での国民の元号使用はあくまで協力要請であり西暦で記入したものも受け付けられること」(2019年4月3日 菅義偉官房長官午前記者会見での発言)。
これは、1979年の「元号法」審議の時点から一貫して政府が言い続けてきたことです。
一方で政府は「元号」の使用について「公文書についても使用の基準は特に設けておりません。」と述べ、公文書に「元号」を使用する合理的な根拠については全く説明出来ず、「慣行」だからとしか言えない状態です。にもかかわらず、発行する公文書には「元号」を使い続け、申請書類にも「元号」を予め印刷した書式を使ったりしています。
言い換えれば、私たちは「社会」生活における「年表記」について、自覚的に議論し自ら定める、ということのなかった「社会」に生きている、ということになります。
窓口の担当者(行政職員、民間会社社員、派遣社員等)も政府の「西暦で記入したものも受け付けられる」という主張について教育されることもなく毎日の業務を過ごし、また窓口で申請する人も、不合理だなとか、変だなとか思いつつ、何か意見を言うのも面倒なので書式に従ってやり過ごす、という状態、要するにこれは「社会全体の無責任」を現していると言わざるを得ません。
「政治」とか「公」的なものは、自らの具体的な日常生活とは別のものだと位置付けられてしまっているのではないでしょうか。
私たちは、日本年金機構における電子申請プログラムが「元号」でしか入力できない仕様になっていることを問題化しました。それは同時に「西暦で記入したものも受け付ける」といってきた政府の主張が単なる「惰性」に過ぎず、現実がどうなっているか確認もしていない発言であることも問題化しているのです。
こうした不合理と、それを放置してきた私たち日本における「社会的な無責任」についての自覚化を広げ、日本社会において「年表記」はどうあるべきかという議論を通し、自らが社会・国家を形成する主体であるという実感を生成したいと考えます。
窓口などでの「元号」をめぐる不合理については会の世話人も体験することがありますが、それを一々窓口で説明して理解してもらうのは現実的には無理です。
そこで私たちは、そのような場面に遭遇した時、政府が「公的機関の窓口業務での国民の元号使用はあくまで協力要請であり西暦で記入したものも受け付けられる」と一貫して主張してきたことや、「元号」の現状を知らせ、これからの日本の「年表記」についてどうあるべきかを皆で議論をしていきましょう、と呼びかける、「手渡しカード」のようなものの作成を現在進めています。