「日本年金機構」元号強制問題、マスメディアへ取材要請

2023年3月13日月曜日

運動 政府の対応

  すでにお知らせしたとおり、2月17日、「日本年金機構」に対して、電子申請プログラムの仕様変更を求める要請書を送付しました。これは、電子申請プログラムが元号でしか申請できない仕様になっているのは、これまで政府が主張してきた、元号を強制するものではない、国民は自由に使い分けられる、西暦でも受け付ける、という言い方に全く反しているからです。

 3月末日までの回答を求めていますが、それについて取材をして頂くように、在京の新聞社、通信社に以下のような「取材のお願い」を送付しました。

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報道各社様 取材のお願い 

2023 年3 ⽉吉⽇

「⻄暦表記を求める会」

共同代表:稲正樹、澤藤統⼀郎、⽥中宏


義務化されている「⽇本年⾦機構」の電⼦申請は「元号」でしか⼊⼒できない。

「元号使⽤を強制しない」という1979 年元号法成⽴以来の政府主張に違反!

電⼦申請プログラムは⻄暦⼊⼒が出来るように仕様変更されなくてはならない。

これを機に、⽇本における公⽂書の「年表記」(元号と⻄暦)について国⺠的な議論開始を!


 私たち「⻄暦表記を求める会」は「すべての公⽂書に⻄暦表記を!」と運動していますが、2⽉17 ⽇、「⽇本年⾦機構」に対して、電⼦申請プログラムの仕様を⻄暦表記でも申請可能なものに変更するよう、要請書(別紙)を提出しました。

 これは、電⼦申請プログラムが「元号」による⼊⼒でしか申請を受け付けていないのは、1979 年の元号法成⽴以来政府が⾔い続けてきた、「元号使⽤を国⺠に強制するものではない」、「公的機関の窓⼝業務での国⺠の元号使⽤はあくまで協⼒要請であり⻄暦で記⼊したものも受け付けられる」、という主張に全く反しているからです。

 私たちは単に「⽇本年⾦機構」の電⼦申請プログラムを問題にしているのではありません。

 これを機に、⽇本において、公⽂書の「年表記」(元号と⻄暦)がどのようにあるべきかについて、具体的に、責任を持った議論が開始されることを願っています。

 報道各社には、今回の要望書についてぜひ取り上げていただき、なぜ⽇本の公⽂書だけが、世界で唯⼀不定期にリセットされる数字による年の表記で作られ続けなければならないのか?、70 年以上も前から問題にされながらいまだ解決できていないこの「元号問題」についての、国⺠的な議論の⼝⽕になって頂きたいと考えております。

 いくつかの資料も同封させて頂きましたが、どうぞよろしくご検討くださるようお願い申し上げます。

同封資料

➀2023 年2 ⽉17 ⽇付け「⽇本年⾦機構」への要請書、及び添付した参考資料(政府説明の抜粋)。

当会作成「資料集」

その他、当会のブログ(「⻄暦表記を求める会」で検索)も、ぜひ御⼀読ください。

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 前提

私たちは「公文書」、すなわち社会全体で共有する情報には、必ず西暦表記を入れること、を求めているのであって、自分の誕生日、年賀状の日付、墓石の刻印などで、各個人がどのように年表記をしようと、それは全く私たちが関与するところではありません。

「元号問題」は私たちの「民主主義」がかかえる問題そのものだ

私たちは、この間、地方自治体へのアンケート、国会議事録調査、数十年間の元号をめぐる新聞記事の検討などを行ってきました。その作業の中で理解したことは、

「元号」は世界で唯一「不定期にリセットされてしまう年表記」であることが問題なのであり、「世界には様々な紀年法がありそれぞれの国の個性だ」というような理解は問題をつかみ損ねていること。
【イスラム暦、仏暦、主体暦(北朝鮮)、民国紀元(台湾)も数字がリセットされることはない。】

「政府は元号」、「市民社会は西暦」、という使い分けによる二重性が、様々な換算の負担を日本社会に強いているが、その負担について社会・国家としてどのようにすべきかについて議論が成立してこなかったこと。

そのことが、「公」と「自分」を切り離してしまい、今回の「日本年金機構」のように政府の説明と異なる対応が行われているにもかかわらずそれを見逃し、それについて組織的な異議があげられてこなかったことに繋がっていること。  等々でした。

 そして結論として、「元号問題」の最大の問題点は、

70年以上に渡り「日常生活での不便、不合理を訴える声」と、「元号はわが国の伝統・慣習だから使い続けるべきだ」と言う言い方とが、全くすれ違い続けるまま、日常生活の具体的レベルで今後どうすべきなのかという、社会的合意形成の努力がなされてこなかったこと、社会的停滞にある、と認識しました。

これは、自分たちの社会・国家の問題を解決しようとする「力」が発揮できなかったという点で、まさに「民主主義」の問題ではないでしょうか。


私たちの立場

「こんな馬鹿げた元号を使っているのは日本だけだ」、と言っているだけでは単なる愚痴であり、「1300年に渡る日本の伝統を守ろう」と言っているだけではその愛すべき「日本」社会の具体的現実的な負担を改善できません。

国会の議論でも、西暦の合理性、利便性はだれも否定できませんでした。それにもかかわらず、西暦で統一することに「日本」=「自分」の何かが失われてしまうのではないか、という「不安」があって、その先に思考が進むことが出来ないでいるのだ、と私たちは理解しました。言い換えれば、「元号」、更に言えば、「天皇」に結びつく何か不定型なもの、から離れてしまうことへの「不安」感が、内向きの停滞に「日本」を沈めてしまっています。

この不安を解消して、勇気を持って世界に歩み出すためには、「日本」を、何か既成品として守らなければならないもの、そのような「日本」としてでなく、これから皆で更により良いものに作り上げていくものとしての「日本」、それを作り上げていくのが「自分」なのだ、と考えていくこと、守らなければならないのは、そのような国家・社会を生成していく主体としての「私たち」なのだ、と考えるべきではないのか・・・。そのような立場から、私たちは、「元号をこれからも使い続けていくべきだ」という方々とこそ、様々な具体的な例をあげて、「元号問題」について、これからの日本のあるべき姿について話し合いたいと考えています。そしてそのような議論が国民的に広がることを願っています

以上

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私たちが具体的に知りたいこと、議論したいこと。


内閣府に対して

① 「日本年金機構」に限らず、電子申請において、西暦での入力を認めないのは元号使用の「強制」だと認めるか。

② 「日本年金機構」以外にも、元号でしか入力出来ない電子申請はどれだけあるか。

③ 2018 年、政府は公文書への西暦表記義務化などを検討したが翌年の改元まで日がないこと、「保守派」への配慮から断念した、と報道されていたが、その後どうなったか。

④ 「年号に関する国民の意識を調査して,今後の施策の参考とする」目的で、政府による元号に関する世論調査が、1976 年と1977 年に行われている。しかし、その設問は、
「あなたは,ふだん,手紙を書いたり,人と話をしたりする時,主に,昭和とか大正というような年号を使っていますか,それとも西暦を使っていますか。」
というもので、個人的な対応を尋ねるものに過ぎなかった。

それから40 年以上経過した現時点において、「今後の施策の参考とする」ために、公文書の年表記はどうあるべきか、具体的な書類の例を挙げて、元号/西暦どちらの表記が適切だと国民が考えているか、世論調査を行なうべきではないのか。


各政党に対して

① 公文書の年表記について西暦表記を義務化することに賛成か反対か。

② 電子データは西暦化するが、紙に印刷するときは元号に変換するという 2019 年の政府の方針についてどう考えているか。


「西暦表記義務化」の意味について

① 「公文書における西暦表記の義務化」とは、年の表記には必ず西暦が含まれていなければならないと言う意味であって、西暦以外の表記を加えてはならない、という意味ではない。すなわち、「2023 年」という表記であっても「2023 年(令和5 年)」という表記であっても、西暦表記さえ入っていれば西暦表記の義務化は果たされている。

当会の「すべての公文書に西暦表記を!」というスローガンも同じ事を意味している。

以上

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※2021年にご連絡頂き返信した、公文書の西暦化に反対する方宛てのメール ”「愛国心」を「接地」しようではありませんか!?” もご参照頂くために同封しました。

私たちの運動に対して、「愛国心が欠けている」、というその方(M様)のご意見に対して、私たちは社会生活の具体的な場面をあげて、M様がその場面で「年の表記の仕方」をどうしたら良いと考えているのかを問い、次のように申し上げました。

個人的な年賀状や、誕生日を自分で言うときに誰がどう表現しようと、全く私たちの運動の関与することではありません。しかし、外国人やさまざまな属性を持った人々に関わる文書=公文書については西暦で表記する必要があると考えます。M様はどうお考えですか。

 
 それでも納得いかないという思いが残るとすれば、
M様がお考えになっている「愛国心」の対象たる「日本」は少し自信がなさ過ぎるのではないでしょうか。「日本」が世界に向かって人々の平和や幸福について働きかけることを想定できず、その「日本」は、どこかの「他国」を鏡にして、危機感と優越感、ただひたすら自らを褒めあげてそこに閉じこもろうとしている、弱々しい砦、幻影に思えてしまうのです。あるいは「元号は日本の伝統・文化だ」とだけ防衛的に繰り返しているのは、「私は私だ」と繰り返しているだけで、新しい日本の伝統を作り上げていく意欲に欠けていないでしょうか。私たちの父母たちも、様々な局面で様々な判断を下し、現在の私たちの社会を作り上げてきました。それらの思考脈路は言葉として、歴史として残されていますから、現在の私たちは、彼らがそう考えてきた脈路を分析し、その勇気や、論理的誤りや、希望につながる芽を、さまざまに分析することができます。


 その上に立って、私たちが作り上げていく社会として、「日本」を考える事が出来るはずです。

 M様の愛国心の熱情をそのような活動の原動力として活用してみませんか。