1945年の敗戦までは、日本社会での「年の表記方法」について西暦か元号かという議論は直接的にはなかったように見えます。しかし、天皇制の廃止を掲げる運動はありましたから、その運動は結果として「元号使用廃止」⇒「西暦のみ使用」を含意していたことになります。
敗戦を機に、占領下で、天皇制、元号についても様々な意見が出されました。
1946年、後に短期間ですが総理大臣を務めることになる、東洋経済新報社の石橋湛山は「東洋経済新報」のコラム「顕正義」に「元号を廃止すべし」という短い記事を執筆していますので紹介します。
国会図書館、プランゲ文庫マイクロフィッシュからのコピーです。付属していた検閲文書によるとこの号には特に指摘はなかったようです。
※プランゲ文庫:米国メリーランド大学が所蔵する、占領下日本でGHQにより行われた検閲を受けた出版物のコレクション。職場の文芸誌に至るまで検閲対象であり、出版者自らが提出することを求められた。
「東洋経済新報」1946年(昭和21年)1月12日
当時、「今回の降伏は神武建国以来の最大凶事だから、全国民をして一人残らずこれを認識反省悔悟せしめるため、この際、昭和の年号を廃し、本年をもって新日本元年とするならば爾後は改元せず、永久に右の元号を継続しよう」という意見書を尾崎行雄が衆議院議長に提出したことが書かれています。
この意見は、「元号」というものが、どのような性格を持つのかよく示しています。
なぜ敗戦に至ったのか、双方で膨大な人命を奪ったこの戦争は何だったのかと考え出してしまうこと、人々の具体的な悲しみや辛さを深く考え始めてしまうこと、そうした動きをインターセプト(簒奪)するかのように、それらの現実的な諸問題の彼岸に、超越的なものとして「国家」を位置付ける機能を「元号」に担わせようとしています。「一億総懺悔」ということばもそのパターンであったのと同じように。
それに対して石橋は、「古くからその必要性を痛感していたのだが、この際、一歩進めて元号廃止、西暦使用を主張したい」、と書き進めます。その内容は尾崎の超越的で気楽なことばと違い、社会の具体的な相における問題意識とそれを解決しようという意志から出発しています。
元号と言う「支那伝来」の制度のために我が国民はどれほどの不便をなめているか。大宝元年といっても西暦の記入がなければ誰もすぐにはいつ頃のことかわからないし、いわんや欧米との交通が頻繁になった今日、国内限りの大正昭和などの年次と西暦とを不断に併用しなければならない煩わしさは馬鹿馬鹿しい限りだ。改元を主張する尾崎氏はまだ旧日本の因習にとらわれている、
と彼は結びます。
これから77年経過した今も、「馬鹿馬鹿しい」状況は変わっていないのですが、それを嘆くのではなく、具体的に変えていく行動に私たちは就かなくてはなりません。
※なお、石橋湛山のこの文章は、「石橋湛山全集」第13巻 2011年東洋経済新報社刊 p161にも収録されています。