「裁判例検索」も「元号のみ」で検索期間を指定--西暦換算表付きで

2023年4月24日月曜日

政府の対応 法曹関係

 国の様々な機関のWebページでは、年月日を入力しなければならないときにどのようになっているのか?

裁判例検索の場合です。

 https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/search1 2023年4月23日閲覧

検索条件指定画面 では「元号」をプルダウンで「令和」「平成」「昭和」から選択し、その後数字を入れる方式になっています。

裁判例検索 入力画面

検索条件指定画面右肩には「西暦早見表」へのリンクが付いています。

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/search1

検索条件指定画面でリンクした西暦換算表


   









 2019年5月1日から「令和」なので、「平成30」=2018の次には「平成31」=2019、「令和1」=2019と続かなくてはいけないのですが、「平成31」=2019は省略されてしまっています。「昭和」から「平成」への移行時にはたった1週間しかなかった「昭和64」もしっかり書き込んでいる(いた)のに、「平成」から「令和」への移行では、実際には4ヶ月間あった「平成31年」を無視しているようです。これはもはや実際の「元号表示による年月日」など問題ではなく、この「早見表」が西暦から逆算することを前提の上で、入力時の手順を示すだけの表だ、という事を意味しているのでしょう。表の欄外には、「昭和=西暦二桁-25 平成=西暦二桁+12 令和=西暦二桁-18」 と書かれていました。基準となるのは西暦であり、その関数として各「元号」を規定した文章になっています。「年」で選択できる数字は「昭和」が64年までなので上限も64まででした。

 以上からは、実際には存在しない「元号による日付」を指定してもそれが西暦に換算して過去の日付になるのであればエラーにならず検索可能だ、と予測されます。合理的に推測すれば、このシステムは実際には「西暦」で作動しているからです。 

 そこで存在しない令和1年2月14日から4月14日までを指定してみます。(政府によれば元号の1年目は「1年」ではなく「元年」と呼び、2019年度の予算も「令和元年度予算」と命名されているのですが、プログラムではわざわざ「元」を入力させて数字の「1」に読み替える無駄なステップは省かれています。)


令和1年ではなく平成31年と「正しく」表示された検索結果が表示されました。
  ↓       ↓      ↓   


 下のように、「西暦早見表」では存在しない「平成31年」という正しい表記で検索してももちろん同じ結果となります。


 「平成」は西暦+12で規定しており、また入力可能な「年」は64までありますから、実際には存在しない「平成」64年までの数字を指定しても、それが現在までの日付に相当すれば検索可能でしょう。
 そこで、「平成35年」で検索してみると・・・。↓
    ↓       ↓      ↓    
 きちんと表示されました。「平成35年」は「令和5年」なのです。

 この調子で「平成」とプルダウンで選択したとしても「平成64年」⇒2052年までの事件をこの検索システムでは検索できることになっています。(「有効な数字を入力して下さい」等という不粋なエラーメッセージなど不要に作ってありますから「平成」がお気に入りだった方には朗報です。でも、2052年までこのシステムが続いてしまうとしたら、「日本」にとっての悪夢ですが。)


 「西暦でやれよ!」、ということです。


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 私たちがこのWeb上の判例検索ページをパソコンで見るに至るまでには多くの行程が含まれています。裁判所内部で検索システムの構造を決めるところから始め、この仕様でシステムを作ってくれと言う入札があり、それを落札した業者が作成し、今もメンテナンスしているのだ、と想定されます。その過程で関わる方々はそれぞれ、自らが作成するこのシステムについてどのような考えをお持ちになったのでしょうか。

 指示に従うしかないという考え、生活のため(賃金を得るため)にはそうするしかないという考え、ずいぶんと馬鹿馬鹿しいことをやっているなという考え、与えられた課題を粛々と進めるだけだ、特に何の思いもいだかないという感想、元号当然だよね、という思考、様々な思考が生まれていたと思います。

 もし、熟練した大工なら顧客からの要望に対して、イヤそのような構造だと使い勝手や雨仕舞いでこんな問題が後で発生する可能性があるよ、と指摘して一緒によりよい構造を考え出すかもしれません。
 本来「公共性」というものも同じ事であり、とりあえず現に存在する、様々な各人の思いを付き合わせ、その思いを徹底的に分析し、気付かなかった思考の形を作り出し、新しい別の「私たち」に変成していくその「過程」こそが「公共性」と呼ばれるべきではないでしょうか。

 「元号」をめぐる70年以上の日本における議論を概括して見いだせることは、そのような過程の不在であり、凸凹の道路をめぐってこれはなんとか全面的に改修しましょうという意見と、イヤこれは日本の伝統・文化財なのだから手を触れてはならないという意見がすれ違うままで、道路の小さな穴埋めが精一杯、身動きが取れない状態ではないでしょうか。

 選挙の投票率の低下などから「民主主義」の危機だ、などと言われます。社会のことを「自分事」として考えるのが「民主主義」だとも言われます。しかし、具体的な日常生活の次元から出発せず、それに対する自らの意見を問わずに、抽象的に「民主主義」が論じられているならば、それはまさに「民主主義」の危機の姿そのものではないでしょうか。

 あなたが属する自治会で地方自治体で、こどもが通う学校で、配付される文書の日付が不定期リセットされる「元号」でのみ書かれていたとき、そこに不便を感じたとき、どのように行動すべきなのか、そこで「民主主義」が問われているのです。