「生年月日の西暦使用は外国人にみえるから元号で書いてください」?? 新宿区の窓口で

2025年1月23日木曜日

生活の中で

 毎日新聞記者で元新聞労連委員長の東海林智さんがFacebookで【新宿区の元号対応・西暦使用は外国籍に見えるだって】と題して自身の体験を紹介しています。

https://www.facebook.com/100002677260901/posts/8841591152606706/?rdid=uy4b9woWlnYpbbMd


 新宿区の窓口で、西暦を選べる申請書式になっていたにもかかわらず、生年月日を西暦で記入したところ、「西暦使用は外国人に見える」 と言う理由で「元号」での申請を求められたという「事件」です。元号使用強制の根拠などないことと、外国人との差別意識について強く抗議したが、窓口ではきちんとした対応がなされなかったということでした。

 以下許可を得て全文を引用し、問題点を指摘します。

【新宿区の元号対応・西暦使用は外国籍に見えるだって】

 FBで行政窓口での元号、西暦使用問題を何度か取り上げた。新宿区からは期日前投票や不在者投票で西暦で申請すると元号で書けと強要されたり、印鑑証明など各種登録で西暦でやろうとしても元号を強要される。つどつど、抗議し、その場で強要の根拠を明らかにさせ(いつも法的根拠はない、そりゃそうだ)、西暦を使ってきた。吉住という日本会議系の区長の〝相談室〟とやらにも回答を求め、「元号を強要する根拠はない」というメールでの回答も得てきた。しかし…………。
 また、だ。今日、印鑑証明をもらいに行くと、申請書類には、生年月日欄に「大正、昭和、平成、令和、西暦」と書いて丸で囲んで書けるようになっている。「ああ、やっと新宿区もまともに対応するようになったか」と西暦に丸で囲んで、生年月日を記して、申請した。すると、受付の職員がこう言った。
 職「日本人ですよね。外国籍の方と思われるかも知れないので、和暦に書き直してください」と
 東「何のために元号と西暦が分けてあるのだ。ふざけたことを言うな。元号を強要する法的根拠を示せ」
 職「印鑑証明の登録が元号で行われています。元号で申請を」
 東「登録した時、私は西暦で申請した。元号は使わないと言って区は申請を受け付けた。そちらが、事務の都合で元号で登録したのだろう。こちらには関係ない。元号でしか登録できない、申請できない法的根拠を示しなさい」
 職「登録が元号なので…………。上の者に聞きます」
 東「区長ご意見箱みたいなのに、メールをして、提出書類での元号使用は強制ではなく、法的根拠もないと回答を得ているが」
 何の回答もなく、証明書作成を始める。証明書完成
 職員「印鑑証明です」
 東「さきほど、何の説明もなかったが、どういうことですか」
 職「申請は元号でないとできないのですよ」
 東「そんなことはないだろう。現に証明書は出たじゃないか」
 職員「上の者が説明します」
 東「申請が元号でないとできない法的根拠を説明してくれ」
 上「ありませんが、そういう(元号で)形でやるルールだ」
 東「区長は強制できないと回答してきた。何のルールだ」
 上「根拠はないです。職場で(この経験を)共有します」
 東「説明も謝罪もないんだな」
 上「ああ、すいません」
 東「まともな会話もできないのか。今回の外国籍のように見えるから元号に書き直せという強要は断じて許さない。区職員の人権意識が問われる問題だ」
 上「ああ、そうですか」
 断言するが、今回の件も共有されないだろう。しかし、この口の利き方。人の心が通っていない。自分の思想信条は自分で守りたいので、今後も、この問題は書き続ける。しかし、本当に新宿区は区民ではあるが、クソだ。鯛は頭から腐るって言うからな。
元号使用は強制ではない、窓口では西暦で記入したものも受け付ける、と政府は一貫して主張  東海林さんも指摘するとおり、1979年の元号法審議時点から政府は一貫して次のように言っています。
「公的機関での元号使用を義務付けた規定はない」、「元号の使用を国民に義務化するとか強制化するものではない」、「国民はこれまでどおり、自由に元号/西暦を使い分けられる」、「公的機関窓口での国民の元号使用はあくまで協力要請であり、西暦で記入されたものも受け付ける」  最近では、令和リセット(改元)が決まった、2019年4月3日、菅義偉官房長官も記者会見で「元号の使用については政府として強制するものではなく、公文書についても使用の基準は特に設けておりません」、「元号の使用については、国民は元号西暦を自由に使い分けていただいてもよいということ」、「公的機関の窓口業務での国民の元号使用はあくまで協力要請であり西暦で記入したものも受け付けられること」と繰り返しています。

2019年に省庁データの西暦化は決定済、但し入出力時は元号に変換するという
 すでに政府は、省庁データは2019年にすべて西暦化することを決定済です。しかし、入出力についてはわざわざ元号に変化するという方針です。
「省庁データ西暦に統一へ」
 このことについてはマスメディアでも問題化する記事は見当たらず、政府発表を紹介するだけでした。
 データは西暦化するのに、入出力では元号に変換するという政府の方針について、私たちは2023年に各政党の見解を問うアンケートを送りましたが、ほとんどの政党は党としての意見は持っていないようでした。

 たとえば、2023年1月4日より自動車検査証は電子化され、必要最小限の記載事項を除き自動車検査証情報はICタグに記録されています。格納される情報の年月日は西暦で記録するよう指示されていますが、印刷される検査証とICタグを読み取るアプリでは「元号」のみで表示されます。車の前面ガラスに貼る車検有効期限ステッカーも「元号」のままです。(国交省 電子車検証特設サイト参照)

電子申請とOCR読み取り書式により、政府主張に反した元号使用強制は増加
 1979年に元号法を議論した時点では窓口での申請は紙に文字を書く方式だったので、「昭和」という固定文字が書式に書かれていたとしてもそれを消して西暦で書いたものも受け付けますから、だから元号使用の強制ではありません、ということで済まされていました。
 しかし、その後、電子申請や、OCR読み取りでの申請が広がってくると、まず元号別の番号を選択入力・記入し、その後の枠に元号2桁を入力・記入させることが増えてきました。
これでは西暦での申請はできませんから、元号使用強制に他ならないのですが、長く議論にならず、見過ごされてきました。
 2023年に私たちは、日本年金機構の電子申請が元号でしか入力できない問題を取り上げ、日本共産党宮本徹衆議院議員に協力頂き、厚労省、総務省等との話し合い、質問主意書を経て、年金機構の電子申請プログラムについては早ければ2025年度に予定している大改修時に西暦での入力を可能にするとの回答を、2024年6月に得ています。


 しかし、他の電子申請やOCR書式の労災申請など元号強制は沢山残っています。
 政府側は質問主意書での回答として、西暦での申請ができないという事実は認めておきながら、それらがこれまで45年以上政府として繰り返してきた「元号使用の強制はしない」という言い方に反したものであることだけは、決して認めようとしません。

日本社会での年の表記方法(紀年法)の問題として国会での議論が必要だ
 今回の新宿区役所窓口の問題は、申請書式として元号と西暦を選べる書式をせっかく作っていたのですから、単純に窓口に元号/西暦の換算表を常備し、職員が粛々と証明書を発行すれば表面的には、それで良かったのかも知れません。実際、窓口では換算表必須と公務員の方からは聞きます。

 しかし、問題はもっと深いところにあります。 
 窓口で一次対応された職員の方が非常勤公務員である可能性は高いと思われますが、その上司は常勤公務員でしょう。今回の事象から分かることは、元号法制定時の、元号使用は強制ではない、ということが政府、地方自治体内部では、業務に必要な知識として全く確認されておらず、ただ、慣行とか、決まっているんだから、というような意識での業務遂行に止まっている、という事ではないかと思われます。
 すでに1989年の昭和⇒平成、2019年の平成⇒令和、という改元の度に、社会的には西暦使用が一般的になってきました。しかし、公文書だけが「慣行」という一言で「元号」表記を死守しており、不定期リセットの元号とその変換に要する社会的コストは増大するのみです。元号表記で公文書を作る体勢が継続してしまえば、今後30年以内にはまた年の呼び名を変更しなくてはならないことは明らかです。
 西暦データからわざわざ元号に変更し続ける社会的コスト、ストレスをどのように解消するのかというのは政治的課題であり、行政府の恣意に任せるべきではなく、まさに立法府の国会でこそ、議論すべきことです。
 
※なお、日本人=元号、外国人=西暦というイメージは、たとえば、モンゴル出身力士について「平成生まれで初の優勝」と書いた新聞記事に対して、「平成生まれ」のように、本来は日本や日本人にしか適用できないはずの表現をつい外国や外国人に使ってしまうことには違和感を感じる、日本国籍を取得したドナルド・キーン氏について大正生まれとは言わないだろう、という産経新聞の記事(2015/10/07【国語逍遥】(64))や、「戸籍」において、元号法施行時に「外国人の生年月日については従来どおり西暦による」と明記した民事局長通達(1979/06/09)などと同じ連想に属していると思われます。これは、日本人/外国人という「国籍」等の「或る抽象的範疇内でのみ成立する弁別」が、論理的混濁により、「存在としての弁別」=差別意識につながってしまうという、日々観察される現象のひとつです。これは「元号」がもつ、差別生成という機能への視点が必要なことも示しています。